
・この物語はAIにより作成したプロットを採用し、AIと協働して執筆しています。
・掲載されているイラストはAIにより作成されています。
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前回のストーリー
別箱という火種
花子はしばらく動けなかった。稽古場の床の線が、いまも瞼の裏に残っている。銀橋に見立てた一本の線。その上を、ひなたが歩くとき、空気の密度が変わった。歩幅も、速度も、ただの移動ではない。客席に息を届けるための、間。
花子はソファの背にもたれ、指先を見下ろした。銀色の冷たさは残っていない。でも、呼吸だけが稽古場のままだ。ルヨンクをそっと閉じ、棚に戻した。照明を落とす。やることを増やさない。検索しない。眠る。
花子は闇の中で、ひなたの背中を思い出す。あの背中が、いつか舞台を降りる日が来るのだと……。でも今はまだ、気づかない振りをしておくことにした。
そして、いつもの朝が来る。いつものように満員電車に揺られて出勤し、締め切りに追われる書類の山をせっせと片付けながら、つかの間、同僚たちとのランチを楽しむ。慌ただしく1日を終えると、疲れ切った体で、また、満員電車に揺られて帰宅する。
そんな日々に彩を与えてくれるのが宝沼。特に週末ともなると、夕食後にはソファに体を沈めたまま、何も考えず、ひたすら何時間も宝沼スカイステージを見続ける。それが花子の日常だった。
金曜日の夜、花子はいつものように夕食を終えるとソファに体を沈め、スマホを手にした。日課となっている宝沼歌劇団の公式ホームページをチェックするためだ。コーヒーを片手にいつものようにスマホを開くと、ヌマ友たちのグループLINEが何やら騒がしい。
「見た? 」
「出てるね」
「ついに……」
「でも、まだわからいよ」
「せっぴーのコンサート2回目だし、退団イベントっぽい」
「ぽいよね」
「だよね、やっぱり、次かな……」
花子は、急いでいるのか動揺しているのか、震えの止まらない手で公式ホームページを開く。手慣れた手つきで画面を下へスクロールしていくと、そこには、青組の新しい上演作品が決まったという新着ニュースがアップされていた。いわゆる“別箱公演”と呼ばれる、少し規模の小さな少人数での公演だ。
ひとつは、トップスター紲瀬ひなたのコンサート。そしてもうひとつが2番手、鷹宮れん主演の海外ミュージカル。どちらも魅力的なラインアップだったが、花子の胸の中はざわつく。花子はスマホを握り直し、いったん画面を閉じた。
まずは、大きく深呼吸をして息を整える。動揺する気持ちを必死に抑えながら、神経を指先に集中させてグループLINEに言葉を打ち込んだ。
「コンサート、だね」
すると由紀子からすぐに返信がくる。
「うん。この時期にトップがコンサートのときって、前例からいっても退団のフラグで間違いないわ」
そう、これはまさしくトップスターの退団時期が迫っているという合図。宝沼ファンにはいくつかの暗黙の定説がある。これまでにも花子は何度もこの絶望感を味わってきたが、何度経験しても、慣れることはない。
花子はスマホをテーブルの上に伏せ、天井を見上げた。退団が発表されるまでは確定ではないとわかっていても、この絶望感はリアリティを伴ってファンの胸の奥まで迫ってくる。
噂とは、誰かひとりが作るものではない。多くの人が同じ方向を見たときに、勝手に生まれるものだ。一定のトップスター在任期間を過ぎてからの別箱発表は、ファンたちにその方向を揃えるだけの大義を与えてしまう。花子もまた、その大義を勝手に脳内で振りかざしている一人だった。
何も考えられないまま、花子はテーブルの上のリモコンでテレビをつけた。宝沼スカイステージでは、過去の新人公演トークが再放送されていた。今は中堅となって組の戦力として大活躍しているスターが、まだ新人公演世代の下級生だったときのものだ。
画面の中のスター候補生は、緊張した面持ちで それでもとても楽しそうに、満面の笑みを浮かべて「学び」を語っている。画面の中に漂う空気は明るく、未来だけが映っているように見えた。花子はその明るさに少しだけ救われるような気がしたが、同時に、複雑な気持ちにもなった。
ここには、未来だけが映っている……。
花子は複雑な感情を整理しきれないままに、忙しくて見ることができていない録画一覧を開く。そこには、過去の上演作品、過去のリサイタル、過去のインタビュー、花子の想いが詰まった“紲瀬ひなた”の記録がびっしりと残されていた。今夜は、それがとても残酷なリストに見えてしまう。
再生ボタンに指を置いたまま、花子の指が止まる。過去を見れば、迫りくる現実がより色濃くなる。濃くなれば、いずれ薄れゆく日が更に怖くなる。それでも我慢できずに、結局、再生ボタンを押す花子。
画面の中のひなたは、客席に微笑みかけていた。微笑みかける前に、ほんの一拍だけ息を置く。あの稽古場で見た“間”だ。客席に息を届ける“間”。花子は思わず、画面に向かって一緒に息を合わせる。
――せっぴーのファンはいま、みんな同じことを考えながら不安を膨らませているんだろうか。
花子はもう一度スマホを取り、SNSを開いてみる。同じ文言が何度も目に飛び込んでくる。
「別箱コンサートってことは……」
「次回大劇場公演のタイトル次第で、確定」
「発表、いつ来るの」
「どうしよう、不安しかない」
「ふたを開けてみれば、違ってた、にならないかな」
「チケット取れる気がしない」
「気になって何も手がつかない」
花子は果てしなく続いているスレッドの途中で指を止めた。スクロールすればするほどに心がざわつくというのに、スクロールを止めれば止めたで、さらに不安に襲われるという負のループ。
スマホをテーブルに置いて、天を仰ぐ花子。そして稽古場で見た床の線を思い出していた。線の上に立てば、立ち位置が決まる。立ち位置が決まれば、やるべきことが決まる。ここは現実。現実にはあの線はない。なら、自分で引くしかない。花子は、まだ続いていたヌマ友たちとのLINEにメッセージを打ち込む。
「今夜はここまで。考えすぎると息が浅くなる」
梨沙の返信は早かった。
「それが、正解」
楓が続く。
「まだわからないしね」
花子は、すべてのアプリを閉じて、スマホをテーブルに置いた。それだけで世界が静かになる。静かにはなったが、“退団”の2文字は頭の中で大きく鎮座する。
別箱は火種だ。点火されたファンたちの心の炎はおさまるところを知らない。すでに煙が充満して窒息しそうになっている。
花子は、とりあえずその場から逃げようと、自分の中でくすぶっている“退団”という2文字をいったん胸の奥に押し戻す。そうしないと、見るもの聞くものぜんぶが「最後に向かっている」ように見えてしまうのが怖かったから。
噂は燃え盛る
花子の中で、紲瀬ひなたの“退団”へのカウントダウンが勝手に始まった。悶々として過ごした週末をなんとか乗り切って、月曜日にはまた、いつもの朝がくる。寝不足でスッキリしない頭で職場に着くと、別の部署にいる宝沼ファンの先輩と廊下ですれ違う。
「花ちゃん、見た?」
先輩の声の高さが、噂の温度を教えてくる。
「見ました。別箱ですよね」
「うん、あれってやっぱり退団っぽいよね」
「どうなんでしょう」
「また、ゆっくり話そうね!」
先輩はそう言い残し、急いでエレベーターに乗り込んだ。
昼休みには、ランチをしながら宝沼公式ホームページを開き、なにか新しいニュースがアップされていないかをチェック。一番上には、きのうと同じように別箱発表のニュースが並んでいる。昨日と同じまま、変わっていない。
「そっか、きょうは月曜日だしな」
宝沼の公休日である月曜日にニュースが出ることは稀だった。花子は公式ホームページの画面を閉じ、代わりに、紲瀬ひなたのコンサートが開催されるホールの場所を調べる。公演期間と業務カレンダーを交互に見ながら、観劇の予定を立ててみた。こういう「段取り」は、花子の現実的な脳を落ち着かせる。
だが段取りの先に、もう一つの段取りが影を落とす。ただでさえ競争率が高くて、なかなか手に入らない紲瀬ひなたの公演なのにもしも退団だとしたら、チケットは超難関の争奪戦になる。花子の手に自然と力がこもる。準備はまだ早い。早いのに、体が勝手に準備を始めてしまう。
別箱の発表から数日、SNSでは紲瀬ひなたの去就についての噂話が溢れかえっていた。誰かが書き込む。誰かがそれを引用する。誰かがそれに「いいね」する。そういった連鎖が、昼も夜も止まらない。花子のスマホにもヌマ友からのメッセージが次から次へと送信されくる。
花子はできるだけ検索しない、見すぎないと自分に言い聞かせて、仕事の机に向かうが、仕事中でも容赦なくスマホが震え続けていた。落ち着かない。
夜に自宅で宝沼スカイステージをつければ、画面の中のひなたは、いつもと変わらぬ笑顔でそこにいる。けれど花子は、笑顔の奥の「間」を探してしまう。不安材料を自分から探して、見つけて、勝手に震える。やめたいのに、やめられないーー。
そこへ、さらに追い打ちをかけるように、宝沼歌劇団の公式ニュースが情報を更新、もはや完全に火種は燃え盛る炎へと変わる。
ーー青組公演の演目が決まりましたのでお知らせします。『旅立ちのセレナーデ│Dreams in the Distance』
このタイトルが発表されれば、ほぼ、トップスター紲瀬ひなたの退団が確定したも同然だった。花子の心の中のわずかな希望が消えた。そして、呆然としたまま握りしめたスマホが、花子の心に追い打ちをかけるように小刻みに震え続ける。
「間違いないね、退団」
「確定だな」
「これで退団じゃなかったら、むしろ驚くよね」
「覚悟を決めるしかないね」
「寂しいな~」
退団が発表されたわけではないが、この瞬間から「退団へのカウントダウン」が、現実のものとして花子の心の中で刻み始めた。花子はいつものようにソファに座ってコーヒーを飲む。気づけばここ数日、ル・ヨンクを開いていなかった。シルビーの声も聞こえない。
花子は目の前の現実を受け止めることに必死になっていた。そしてこの日も花子がル・ヨンクを開くことはなかった。化粧前の笑い声や、稽古場の眼差しが、どんどん花子の記憶から薄れていく。今、花子が求めているのは夢の中に没入することではない。現実の順番を、ひとつずつ受け止める力だ。
「シルビー……」
小さな声で呼んでみた。そこにシルビーがいないことに、花子は少しだけほっとした。いまは、夢を見ることの方が怖いと思ったからだ。夢は順番を飛び越えて、結論だけを先に見せてしまう。花子は、冷めきったコーヒーを淹れなおし、もう一度ソファーに深く腰掛けた。
湯気の立ちのぼるコーヒーからは、切なくも、たしかに現実の匂いがしていた。

【宝沼歌劇団 第9話│紲瀬ひなた、退団発表!】の更新予定は2/21です。




